●東南アジアからの便り①:ゼミ生のエッセイ「シンガポールで考えたこと:世界の価値観と自分の生き方」
東南アジアに留学中の学生からエッセイが届きました。普段は学術的な文章を書く練習をしますが、このエッセイは自分の感情や思いをもとに書かれています。ゼミでは稀なことですから、皆さん楽しんでください!
今回は4年生の関万葉さんのエッセイです。
「シンガポールで考えたこと:世界の価値観と自分の生き方」
8月初めに羽田を発ち早1か月が過ぎた。この1か月、日本にいたら決して見ることの無かった景色を見てきた。毎日疲れるくらい新しい発見があり、そのたびに感じること、考えることがあった。
このエッセイには、見たものや聞いたことから感じたこと、考えたことを率直に記したい。※情報は全て人々との会話から得たもの、自分で調べたものであり、事実と異なる場合もある。
◯トラックの荷台にたくさんの労働者
天然資源がなく国土の狭いシンガポールでは、人工の観光名所や高層ビルを建設することで産業や居住空間を生み出している。そのため街の至る所で工事が行われているが、その労働者の顔を見ると99%はインド系である。彼らはバスや車ではなく、工事現場のトラックの荷台に乗って通勤している。高級車と人間を乗せたトラックが走り抜けるシンガポールの後継は、日本で生活してきた私にとっては奇妙に思えた。
シンガポールはアセアンの中で群を抜いて高所得者が多い国で、中心部には高級ブランドが入った煌びやかなモールや高層ビルが立ち並んでいる。しかしそのすぐそばには、古びて色だけカラフルに塗り直したチャイナタウンやリトルインディアがある。そうした場所が「映える(ばえる)」写真スポットとして観光客に人気を集めている。
混在する文化は確かに面白いと感じたが、格差の上に成り立つ豊かさという二重構造は一都市の発展において避けられないのだろうかと疑問に思った。自分もその恩恵を受け、休日には観光名所を巡り、屋台の安いご飯を食べて楽しんでいるので複雑な気持ちを抱いている。

(写真「トラックの荷台に乗る労働者たち」バスの2階から撮影)
◯個性の幅
中華系、マレー系、インド系、ヨーロッパ系など様々な民族が共存するシンガポールでは、一人ひとりの個性やアイデンティティが多様であると感じる。
日本では、人々が似たような顔つきで、ほぼ同じ言語を話すため、服装や化粧で個性を出し、顔や体つきの細かな違いで他者を認識している印象があった。
一方シンガポールでは、それぞれが自身の文化や好みに合わせ自由な服装をしており、肌の色、体臭、話す言語が様々である。例えばマレー系の人はkebayaというバティックにも見える伝統衣装を着ていたり、インド系の女性はサリーを着ていたり、おでこに白や赤の粉のようなものをつけていたりする。日本人の女性は出掛ける際は化粧を必ずする印象だが、こちらでは日常生活で化粧をする人は非常に少ない。シンガポール人の友達は「結婚式など特別な日にしか化粧はしない」と言っていた。もちろん人によって価値観は異なり、他のシンガポール人の友達は「私は毎日化粧もするしきちんとした服装で授業を受けたい」と言っていた。
この環境に1か月いたためか、私自身日本にいた頃より自他の見た目を気にしなくなった。それよりも、その人の話す言語や英語のアクセント、体格、ヒジャブなどの服装、何より内面から判断するようになった。
日本よりも「個性」の幅が広いことは面白く、逆に個性を細部に表現する日本人の文化も面白いと感じた。日本に戻ったとき、私の日本人の見方も変わっているかもしれない。

(写真「左からインド系、中華系のシンガポール人の友人と筆者」寮のウェルカムパーティーにて撮影)
〇オーストラリア展
National Galley Singapore のアボリジニ―に関する期間限定展示を見た。アボリジニーの子孫の方が、「オーストラリア最初の人類」としての自分達の存在をアートで世に伝えている。ちゃんと説明読んでないけど。National Gallery にはインドネシア、ミャンマー、マレーシア、ベトナム、タイ、ラオス、そしてオーストラリアなど様々な国の展示があり、国家という概念が極めて新しいものであるという講義での言葉が思い起こされた。

(写真「Ash on me」National Gallery Singaporeにて撮影)
煙草をふかしたヨーロッパ人がアボリジニーを征圧した状況を、灰皿を用いて比喩的に表現している。アボリジニーの子孫の方が作った作品。
ヨーロッパ人の顔はひとつも描かれてなくて、灰を落とされるのはアボリジニー、コアラやカンガルー、そしてオーストラリア大陸の自然のみ。
灰を落とせば落とすほど彼らの顔や姿は見えなくなる。
ヨーロッパ化されるにつれ元々あった彼らの文化やオーストラリアそのものの自然が失われていく様子がうまく表現されていると感じた。



(写真「double standard」National Gallery Singaporeにて撮影)
右2枚は拡大した写真
アボリジニーの生活の写真とヨーロッパ人の生活の写真が日本米の袋に貼られている。洋服を着てカーペットの上でくつろいでいるヨーロッパ人と、ほぼ裸で土の上で暮らしているアボリジニーの対比はグロテスクに感じた。何をグロテスクにと感じたかというと、土の上での暮らしを大切にしている人たちのところに、頼んでもいないのにヨーロッパ人が服を着て靴を履いてやってきて、自分達のスタンダードを力ずくで実践したところである。木を切り倒して道を整備して建物を建てたり、言葉が通じなくて服を着ていなくて(入植当初は先住民に負けているが)自分たちより弱いから征服の対象と決めつけ、反抗したら殺したり。
私はそうやって道が整備され、人間が靴を履くようになったことを「文明が進歩した」と思うように教育されてきたが、それはただ「(少なくとも植民地の話においては)ヨーロッパ風になった」だけで、必ずしも前に進んだとは言えないのではと思った。
これがヒトの本能なのかもしれないが、弱い者を武器で弾圧し、その人たちが大切にしてきた価値を壊して自分達の価値を押し付けることは、文明の進歩と言えるのだろうか。
人類の歴史は戦争の歴史と聞いたことがあるが、歴史は必ずしも進んでいるわけではなく、繰り返したり、退化したりしていると思った(進んでいるのは時間のみ)。
これは原住民とヨーロッパ人に限らず、沖縄の海の埋め立てやマチュピチュの観光客の人数制限など、様々な文脈に当てはまるのではないだろうか。
服を着ている、言語が使える、火が使えるのが優れていると考えているのは人間だけで、自然からしたら迷惑かもしれない。
勝手に価値を作り、植物や動物にそれを押し付け、破壊し、破壊しすぎたら保護をして、人間は何がしたいのだろう?という問いも、この作品を見たことで生まれた。
「CO₂削減」「文化の保護」など自分が生まれる前から言われてきている気がするが、自分1人の小さな行動が影響を与えると思えなくて行動してない人も多いだろう。極論自然のためには人間などいない方が良いという考えもあるだろう。
自然や異文化と上手に共存する方法は、社会がそういう流れだからとりあえず自分も、我が社も、我が国も、という気持ちではなく、それぞれが強い意志を持っていないと見つけられないと思った。
そのための教育はもちろん大切だが、自分から動いてそう思うきっかけに出会い、能動的に「自然は大切だな」「文化は守るべきだな」と気づけた時の方がその意志は強くなると思った。
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